【正雄⑨】
あうちゃんが来てから3年が経った。あうちゃんがきてから私は変わったと自分でも感じるようになった。母さん曰く、私の顔は柔和になったらしい。以前の私は人が近寄り難い空気を放っていた。誰も私の懐の中には入ってこなかった。そんな私の障壁の中へ何の躊躇いもなく、あうちゃんは入ってきた。しかも、その懐の中ではずっと癒しの息吹きを放ち続けた。それによって、私の心を少しずつ浄化していったのかもしれない。
不思議なものだな。
言葉を発っさない猫に人格までも変えるような力があるなんてな。
休日の昼下がり柔らかい陽射しが窓から差し込んでくる部屋の中であうを撫でながら、正雄はそんなことを考えていた。
【僕⑫】
僕は大学生になった。実家を離れて下宿をしている。GWやお盆休みやお正月に帰省すると、お母さんとお父さん、そして、あうちゃんがいつも出迎えてくれる。そのあうちゃんの元気が最近元気がないみたい。食が細くなってきてしまっているそうだ。野良猫だったから分からないけれども年齢は13歳位らしい。
「最近はキャットフードを食べなくなってしまってねぇ」
「お魚を少し食べる位なのよ」
僕はあうちゃんを撫でながらお母さんの話を聞いた。確かにあうちゃんは痩せてきている。帰省を重ねる毎に軽くなっていく。
「そろそろ覚悟しておかないといけないのかもね」
お母さんは悲しそうにそう言った。僕はその言葉を聞いただけで泣き出しそうだった。僕が実家にいる間、あうちゃんを観察していると、かなり弱ってきているなと感じざるを得なかった。ご飯も少しどころか殆ど食べていないようだし、一日中横になっている。いつもなら、今日のような柔らかい木漏れ日が窓から差し込んでくる時などは、2階に上がって窓際でまったりと日向ぼっこをしている筈なのに、一階で横になっている。極力動かないようにしているみたいだ。
お母さんの言う通り、覚悟はしておかなければならないのだろうか。
【僕⑬】
僕が用事を済ませて家に帰ってきた時に、それは起こった。扉を開けた瞬間、あうちゃんが飛び出そうと待ち構えていた。もう慣れていた僕はあうちゃんが外へ出る前に扉を閉めることができる。だけど、その時は1日中居間でぐったりと寝転がっている筈のあうちゃんが其処にいることに驚いてしまって身体が硬直してしまった。
(しまった………)
あうちゃんは、一瞬の隙を見逃さず出ていってしまった。僕の顔からは血の気が引いた。
いつもの脱走じゃないぞ。
あんなに弱っている身体で出ていったんだ。しかも、このうだるような暑さ、何かあってもおかしくない。
僕の中で最悪の結末が頭の中に浮かんだ。
「あうーーー!!!」
僕は必死になってあうちゃんを探した。
そういえば、何処かで聞いたことがある。
「猫は死に場所を見せない」と。
(まさか死に場所を探しているのか)
(頼む!)
(死なないでくれ!)
心の中で叫びながら僕は探し続けた。
恥も見聞も知らずに僕は近くを歩いている人、近所の人に物凄い形相で声をかけた。
「茶白の猫を見ませんでしたか?」
「見たら知らせてください」
(死なないでくれ)
(頼むよ………)
(帰ってきてくれよ………)
僕は祈りながら探し続けた。そして、半ば錯乱状態になりながら、お母さんに電話を掛けた。
「もしもし、ごめん、あうが脱走した、どうしよう」
「えっ………」
お母さんは絶句した。
「その辺いないの?」
「うん、ずっと探してるんだけど」
僕は今にも泣き出しそうだった。
「そう、家に入ってみたらどう?帰ってくるかもしれないから」
「うん」
僕は完全に生気を失ってしまった。
(………)
何も考えられない。放心状態。
僕が居間に腰を下ろすとすぐにインターホンがなった。僕は飛び魚のように飛び上がった。
「はい!!」
「隣の山田ですけど、茶色と白色の猫がうちの車の下にきとるよ」
「本当ですか!!!」
僕は再び外へ飛び出した。そして、隣の家の車の下に目をやると、あうちゃんがいた。
「あうちゃーーーん、探したよ」
僕は泣いていた。
あうは、いつものようにか細い声で「あう」っと鳴いて家の方へ向かっていった。僕が玄関の扉を開けると、すっと入っていった。
(あぁ、本当に良かった)
僕の大事な大事なあうちゃん、もう何処へも行かないでおくれ。
【正雄⑩】
あうとの別れを覚悟しないとな。
近頃、私はあうを見る度に心の中でそう呟くようになっていた。何度も呟いてはいるけど、腑には落ちない。
あうは私を変えてくれた。日々の暮らしの中で、私の心の側面にあったバリを削って少しずつ滑らかにしてくれた。
感謝してもしきれない愛しい存在の子。
一日でも長く生きて欲しい。そう願ってる。
【僕⑭】
あうちゃんは少しずつ確実に最期へ向かっているように感じる。
寿命だから仕方がない。
そう自分の心に言い聞かせても、腑には落ちない。
一緒にいたいな。日に日にそんな気持ちが強くなる。
僕があうちゃんを膝の上に乗せて撫でていると、お父さんが仕事から帰ってきた。
「細くなったろう」
「ただいま」も言わずお父さんは言った。なんのことか聞かずとも分かる。
「そうだね、悲しいね」
「ああ、沢山撫でてやってくれ」
「うん」
あうは鳴かなくなっていたが、気持ち良さそうに目を瞑っている。
ねぇ、何考えてるのかな?
【最期】
誰も望まない、その時はやってきた。
あうちゃんは息をするのもやっとという状態になっていた。
お母さんの腕に抱えられて必死に生きている。
(あぁ、嫌だ嫌だ嫌だ)
僕とお母さんと姉ちゃんはあうちゃんに語りかける。
「あうちゃん、ありがとうね」
「あうちゃん、楽しかったね」
「あうちゃん、うちの子になって幸せだったかな」
だんだん語りかけようと口を開くと涙が溢れ出してしまって喋れない。
(あっいってしまう)
僕は感じた。僕は口を真一文字に固めた。
「………」
「天国にいっちゃったね」
お母さんがポツリと言う。
姉ちゃんが声を出して泣きだした。
僕もつられて泣いた。
泣きながら視界にお父さんが見えた。
心の片隅の方にひっそりとなんとか理性を保っている冷静な僕が思った。
(お父さんが泣いてるの初めて見たな)
皆に愛されていたね。幸せだったよね。今まで本当にありがとうね。あうちゃんがいてくれて本当に良かった。
天国で楽しく暮らすんだよ。
本当にありがとうね。