【前置き】
どうも、虫虎です。今回は「因果応報」という言葉について思うことを書きます。宜しくお願いします。
【意味】
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。
【因果応報であって欲しい】
良い行いをすれば良い報いあり、悪い行いをすれば悪い報いあり。ひたむきに善行している人がずっと日の目を見ない事はなくて、悪い事をしている人がずっと甘い蜜を啜れる訳ではない。この四字熟語通り、そんな因果の巡りであって欲しいなと僕は思います。
【大半の人には当てはまる】
因果応報の法則は大半の人には当てはまるのではないかと僕は考えます。
狡猾に世渡りをしている人や見えないところで悪事を働いている人はいるのでしょう。そういう人達の中でも、余程の権力や才覚を持ち合わせていて危険察知能力が高くない限りは、因果応報が発動して最終的には痛い目を見るのではないかと僕は思います。
なかなか因果応報の輪廻の中から逃れるのは難しいのではないでしょうか。
【ひたむきに善行する】
だから、因果応報の四字熟語を信じて、人に親切にしたり、困ったいる人がいたら手を貸したり、人の役に立つことをしたり、人の嫌がる事をしないで、毎日を心穏やかに澄み渡らせて、努力は報われる、一日一善と善行に励むのがいいのではないかと僕は考えます。
信じて取り組むことで、もう既に気持ちの面ではいいことが起こっているのではないでしょうか。
そう、因果応報の法則を信じて善行に取り組むことが重要なのかなと思います。
【そして当たり前になる】
最終的には善行するのが当たり前になるまで行動規準を落とし込むのがいいと僕は考えます。
見返りを求めるのではなくて、自然体で困ったいる人がいたら助ける、人の喜ぶことをする。それが自然とできるようになると、「因果応報」の大きな恩恵を受けれるのではないかと僕は考えます。
【まとめ】
悪い意味合いで使われることの多い因果応報という言葉だけど、僕は好きです。
だって、ひたむきに誠実に頑張っている人達が報われる世の中であって欲しいと思うから。
仏教で言えば、お世話や親切は布施。見返りを求めない行為なのですから“やりっぱなし““しっぱなし“でいいのです。それで、満足すべき尊い行いなのです
(「気にしない練習」より)