【前置き】
どうも、虫虎です。アドラー心理学の「課題の分離」について思うことをつらつら~と書いてみます。宜しくお願いします。
【誰の課題か?】
アドラー心理学において、課題の分離とは、自分と他者の課題を明確に分けることです。
対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことで起こる場合が多い。だから、自分の課題には他者の介入を許さず、他者の課題には介入しないこと、をアドラー博士は推奨しています。
その課題をどうやって分離させるかは、その結末を最終的に引き受ける人は誰かで判断します。
その結末を引き受ける人のところで疑問が浮かびました。
課題の結末を最終的に引き受ける人が一人ではない場合はどうなるか。
例えば、日中慌ただしく過ごして、家事の皿洗いが夜中に残ったとします。その皿洗いをするのは、夫なのか妻なのか。
最終的に皿洗いをしないで、翌日に料理をするときにその後片づけを引き受けてしまうのは妻だとします。では、この皿洗いをするという課題は妻の課題なのか。
けど、翌朝の皿洗いを妻が拒否したら夫がすることになる場合もあります。そしたら、その皿洗いの結末を引き受けるの夫になります。
さらに、夜中にお互い疲れていときに夫が皿洗いをしないことで、妻の不満がたまって、関係が悪化する場合もあります。そしたら、その結末を引き受けるのは夫と妻になりますよね。
すると、皿洗いという課題は夫の課題とも、妻の課題ともいえるのかなと僕は思います。
些細な課題かもしれませんが、そんな風に分離しにくいものもあるのかなと思います。
【夫と妻の課題】
となると、これは夫婦の課題。つまり、愛のタスクということになるのかなと思います。
皿洗いを誰がするのか。その課題の結末は、二人で引き受けることになります。
だとしたら、アドラー博士の仰るように、自己中心的な考えから脱却して、他人に関心を注ぐことが必要になってくるかと思います。
妻も疲れてるだろうから、俺が皿洗いをやろう、と。すると、どう思うかはわからないけど、妻は喜んでくれる可能性は高いのではないでしょうか。
そういう風に考えて行動していくのが結局はいいのかなと思います。課題の結末はどちらとも引き受ける可能性があるのだから、二人の課題である。それなら、進んで愛を築く行動をとるべきであるかと思います。
どっちの課題なんだと、うだうだ考えずに二人の課題だから、俺がやるという意気込みでいいのかなと思います。
それが本当の意味での幸せに繋がっていくのかもしれないですね。
【まとめ】
誰の課題か考えてみて、二人以上の課題だと思えれば、自らの動くことが必要であると僕は考えます。
その選択について他者がどのような判断を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうすることもできない話
(「嫌われる勇気」より)