「悪い、ちょっと腰の調子が良くならなくて日曜の大会行けそうにないわ」大田先輩は腰をさすりながら申し訳なさそうな顔をした。
「あぁ、そうですか」大河は頷いた。
「俺が誘ったのに悪いな。一人でも行くか」
「そうですね。せっかく応募したので行ってみたいですね」
大河は少し不安ではあったが、辞退する気にはなれなかった。
大河は3ヶ月程前から大田先輩の勧めでマラソンを始めた。彼とは、仕事終わりや休日に一緒に練習を積み重ねていた。
そして、今度の日曜日、ついに初のハーフマラソン大会に出走するのを楽しみにしていたのだ。
「一応、嫁もついてきてくれますから、一人ではありませんし大丈夫ですよ」それより腰をしっかり休めてくださいと大河は付け加えた。
ここ最近、大田先輩は腰の違和感を感じながら練習に取り組んでいた。それがどうやら悪化したようだ。
「当日はしっかりと俺の分も頑張ってくれ」大田先輩は大河の肩を強く叩いた。
大会前日の土曜日。
「熱、下がらないわね」夏江は吐息を漏らした。
「本当に行ってもいいのか」大河は再び尋ねた。
「えぇ、勿論行ってきて。この子のことは、私が見てるから。ついていけなくてごめんなさいね」夏江は申し訳なさそうな顔をした。
「いや、なっちゃんが謝ることないよ。俺の方こそ早希子が熱を出してるのに申し訳ない」
「いいのよ、もう3才なのだから、大丈夫よ。それよりも明日は頑張ってきてね」
「あぁ、ありがとう」
前日に娘が熱を出してしまい、夏江も大会に行けなくなった。こうして、大河は初のマラソン大会を一人きりで走ることになった。
日曜日の朝。空は雲一つない快晴。
「寂しい大会になっちまったな」大会会場へ向かう車中で大河は一人呟いた。
大田先輩や夏江が来れないのは不安ではあったけど、内心、初の大会への期待感の方が大きかった。頑張ってきた練習の成果も試したかったのだ。
会場へ着くと、そこは熱気に満ち溢れていた。如何にも「ランナー」と呼ばれるような人達が大勢いた。各々、談笑したり、ストレッチをしていたり、何か食べたいたりしていた。
意外なことに出店もあった。焼きそばやフランクフルト、マラソン大会らしいスポーツ用品などが売られていた。
へぇ、お祭りみたいだな。大河は楽しい気分になっていた。ゆっくりと出店を見て回って出走時間までの時間を潰した。
「スタートまで10分前となりました」アナウンスが聞こえる。
「………ふぅ」
高まる鼓動。いつもと違う風景。研ぎ澄まされた感覚。
大会前の独特な緊張感は大河にとって久方ぶりだった。この感覚、学生のとき以来で懐かしいなと物思いに耽っていた。
パンっと銃声が聞こえる。
(………もうすぐだな)
大河のずっと前に並んでいた人達が走り出している。徐々にその波は大河まで押し寄せてきた。大河は、他のランナー達と一緒に走り始めた。
高揚していた大河のペースはいつもより速かった。
「はぁ…はぁ…」
加えて、大勢の人がひしめく高密度のエネルギー空間では体力の消耗が激しい。
開始1キロメートルの時点でかなり息があがってしまった。
大河はまずいかなと頭の片隅で思いながらも、上がってしまったテンションを抑えきれずペースを上げていく。
マラソンには人それぞれのペースというものがある。周りの人たちは次第に少なくなっていった。
大河は残った自分と同じくらいのペースの人達に引っ張られながら、いつもより速いペースで走り続けた。
(なんなんだこの高揚感は)
大河は不思議な感覚に囚われていた。同レベルかそれ以上の実力のランナー達との追い越し追い越されのバトルや疲れてペースを落とした人を捉えて颯爽と追い抜くのが楽しくてたまらなかった。
そうしてそのまはま大河は初めての大会の魔力に導かれながら実力以上の結果を残すことができた。
「はぁ…はぁ…」
マラソン大会って滅茶苦茶楽しいじゃないか。
一人になってしまったけど来て良かった。大河は心の底からそう思うのであった。