ランニング好きライトゲーマー虫虎(小説家志望)の日記

ゲーム、ランニング、文章書き、読書、昆虫、子育て、オナ禁、映画、人間関係、音楽、僕が考えていることなどを書いている雑記ブログ

皆に優しい自分でいるとありのままの自分で有りやすい

【前置き】

どうも、虫虎です。今回は、優しさや誠実さを大事にするとありのままの自分でいやすいのではないかという話をしてみます。宜しくお願いします。

 

【一部の人に優しくする】

人は色んな顔を持っています。誰々と接するときは優しい自分、誰々と接するときは厳しい自分と誰と接するかで自分を使い分けることは無意識にかもしれないけど皆がしていることだと僕は思います。人によっては、人一人毎に自分を変えていることだってあるかもしれないですね。

 

大袈裟な例を出してみると、よくドラマなどにいるホステスが「あーん、社長~、一緒に飲みましょうよ~」って甘い声を出しながら、ぱっと後ろを振り返って新人のホステスに「あんたはあっちで皿洗いしてなさい」と怖い顔で言うみたいな。

 

あの人には礼儀よくしてた方がいい、この人には厳しくしといた方がいいといった色んな顔を持っておくことは人生を上手く生きる上で大事なことあるとも僕は思います。

 

けど、そんな風に色んな顔を持つと、心はしんどくなってしまうのではないかとも考えてしまいます。

 

【自分の中に色んな自分がいるとしんどい】

人生をよりよく生きるには色んな顔を持つことは大事だとは思うけど、心は結構しんどいと思います。

 

それは、自分を色々と演じるのもしんどいし、周りの人に自分が人によって態度を変えてるのが知られると不信感をもたれるし、カメレオンになってると本当の自分を見失ってしまうことだってあり得るのではないでしょうか。

 

だから、色んな顔を持ちすぎるのも考えものだと僕は考えます。

 

時々、自分の確固たる意思があってどんな人に対しても態度を変えない人を見かけます。そういう人は、周りと衝突しやすかったり、それが権力のある人であれば腫れ物のように扱われることもあるような気がします。そういうのは嫌だけど、ありのままの自分で周りと接することができたら素敵だなと感じます。

 

そこで、ありのままの自分に優しさと誠実さを心掛けさせることでそれに近しいことができるのではないかと僕は思いました。

 

【変わらない自分で日常生活を通常運転する】

変わらない自分で日常をずっと過ごす。それは自分の心にとって楽なことだと思います。

 

そのありのままの自分の価値観が周りと合ってなかったら、周りと衝突したり、気を遣われたり、腫れ物扱いされたりします。

 

そこで、優しさと誠実さが必要になってくると僕は考えます。

 

どんな人にも優しさと誠実さを持って接していれば、トラブルになることも少ないはずです。

 

だから、ありのままの自分に優しさと誠実さを心掛けさせる。すると、日常生活でありのままの自分でいても心の負荷になるような出来事にも出くわさないで、過ごすことができるのではないかと思います。

 

優しさと誠実さを装備しておけば、人間関係の問題少なく、自分を変えることをしなく、過ごせるのではないでしょうか。

 

人に優しく。それは自分の身を守ることにも繋がってくると思います。ただ、注意しないといけないのは、自分の優しさに必要以上につけこんで騙したり奪ったりしようとしてくる人には気をつけなければならないと思います。

 

【まとめ】

優しさと誠実さを心掛けながらありのままの自分を出していくといいという話でした。


f:id:mushitora:20211006130222j:image

テレビの前でスポーツ選手を批判することについて思うこと

【前置き】

どうも、虫虎です。僕は、スポーツの第一線で活躍している人を批判している人を見かけるとなんだか気持ちがモヤッとしてしまいます。今回はそのことについて書いてみます。宜しくお願いします。

 

【スポーツ選手を批判する】

昨日の○○野球球団の○○はあの場面で打たれるなんて駄目だな、○○サッカーチームの○○はあの絶妙なパスをゴールできないなんてアカンわ、あのテニスの○○選手は格下の○○選手に負けるなんて油断したんだわ、水泳の○○選手のタイム、あれじゃ駄目だわみたいなことを言っている人を時々見かけます。

 

僕はそういう第一線で最上級の努力をして人生をかけて戦っているスポーツ選手の批判を聞くとモヤモヤした気持ちになってしまいます。

 

批判するあなたはできるんですかって言いたくなってしまいます。同じ状況に立たされたときにバッターを三振に抑えられるんですか、そのパスをゴールポストに届けれるんですか、○○選手に勝てるんですか、そのタイムを叩き出せるんですかって問いたくなってしまいます。

 

テレビに映って活躍するようなスポーツ選手は粉骨砕身の精神で頑張っているわけですから、表現の自由があるとはいえ、批判するのはどうなのって僕は思ってしまいます。

 

【批判はやめよう】

近くにいる人の批判は人間関係を悪化させてしまう恐れがあるので、勿論よくないと思います。

 

加えて、自分とは縁遠い遠くにいる人の批判も同様にしない方が結果的に自分のためになるのではないかと思います。

 

実際に実害はないのかもしれないけど、批判ばかりしていると、自分の心は汚れていくような気が僕はします。

 

自分の心が汚れると、結果的に実害を招く。人の批判ばかりする癖がついてしまうと、その批判を聞いている人もあの人は色んな人の悪口を言っているのではないかと思われるようになり、人間関係がこじれやすいように感じます。

 

スポーツ選手の話に戻ると、自分がその分野に精通してきてできることなら批判もアドバイスになるかもしれないけど、プロの人に素人が何も言えないような気が僕はします。

 

【スポーツ選手の批判をする人を批判する僕】

とはいえ、僕も批判はよくないと言及しながら、スポーツ選手の批判をする人を批判しています。

 

書きたい気持ちを抑えずに書いてしまいました。

 

矛盾してますが、批判することはあまりいいことではないと思います。

 

だから、僕自身もなるべく言わないように気をつけたいと思います。

 

【まとめ】

スポーツ選手の批判をするのはよくないと思いますという話でした。


f:id:mushitora:20211003203313j:image

 

いきり倒すことのメリットとデメリットについて考えてみた

【前置き】

どうも、虫虎です。今回は、いきり倒すことっていいことなのか悪いことなのかについて自分なりに考えてみました。宜しくお願いします。

 

【「いきり」とは?】

まずは、「いきり」とは調子に乗ったり、偉ぶったりするさまのことです。

 

では、「いきり倒す」とは調子にに乗りまくったり、偉ぶりまくることとなるかと思います。

 

辞書の意味では調子に乗ることですが、僕の「いきり」という言葉の感覚としては、「強がって自分を大きく見せようと格好つけてる」感じです。

 

今回は、僕の印象としての「いきり」について考えてみます。

 

【いきり倒すことの一長一短】

「いきり」を発動する場合、強がって自分を大きく見せるようと格好つけるわけだから、一瞬でも格好悪いところは見せられないかと思います。

 

だから、「いきり」を発動する場合はそれをずっと続けなければならない。つまり、「いきり」倒さなければならないと考えられます。

 

そんないきり倒すことの一長一短について考えてみます。

 

メリットとしては、「いきり」が上手くいくと周りから格好いい人という印象を獲得できて、女子にモテたり、後輩に慕われたりするかと思います。人間関係においてもいい位置を取れるかなと感じます。

 

デメリットとしては、格好悪いところを見せれないから疲れる。気を抜けないからしんどい。そして、「いきり」が失敗したらダサいです。あの人、変に格好つけててダサいよねみたいな。

 

そんな風に「いきり」には一長一短あるかと僕は考えています。

 

【いきった方がいいのかどうか】

では、どっちがいいのでしょうか。

 

僕の意見としては、僕自身、格好よく見られたい願望は大いにあるのだけれども、しんどいからやめた方がいいのでないかです。

 

他人に格好よく見られようとすると、他人の目ばかり気にしながら自分の行動を選択していくので、想像以上にしんどいことのように思います。

 

「いきり」の場合はそれをずっと続けていかなければならないわけだから、周りからは一目おかれるかもしれないけど、かなり疲れると思います。

 

そうではなくて、自分らしく素直にいることの方が大事なんじゃないかと僕は考えます。周りの人には謙虚に誠実に接する。分からないことは素直に聞く。自分一人でできないことは助けてもらう。失敗したら隠さず謝る。知ったかぶりをしない。格好つけない。

 

人によく見られたい気持ちはよく分かるのだけれども、変に格好つけるよりも、素直にありのままでいることの方が大事だと僕は考えています。ありのままで格好いい人になれるのが理想かなと思います。

 

しかし、人にはそれぞれの個性や性質、価値観かあるから、自分に合ったスタイルを貫いていくのが結果的にいいとも思います。「いきり」が得意な人もいるかもと思いますし。

 

【まとめ】

今回は、いきり倒すことについて考えてみました。

 

「いきり」には一長一短ある。どっちを選択するかは自分の価値観次第。

 

僕の意見としては、「いきり」はしんどいから、変なプライドは捨ててありのままでいる方がいいということです。


f:id:mushitora:20211002123103j:image

映画「スタンド・バイ・ミー」感想

【前置き】

どうも、虫虎です。今回は、映画「スタンド・バイ・ミー」の感想を書きます。ネタバレありますが、よろしければお付き合いください。宜しくお願いします。

【あらすじ】

「俺、山奥に行方不明の死体があるって聞いたんだ」

 

「いいじゃん。それを見つけたら俺達有名人になれるぞ」

 

思春期に色んな問題を抱えてる小学六年生の男の子四人が線路をつたいながら死体探しの冒険に出掛けるのであった。

 

【思春期の頃の友達】

思春期の頃の友達って印象深くて、今でも割りと解像度高めに記憶に残ってることが多いような気がします。

 

小学生の頃というのは、物心がつき始めて色んなことに悩み出す時期かと思います。その刺激を受けやすいときにできる友達は、近所に住んでるからとかクラスが同じだからという理由でなることが多いです。

 

中学や高校では専攻や受験などがあって、自分と似た価値観の人が集まりやすい。けど、小学生の頃は偶然そのとき近くにいた子と友達になるわけだから、価値観はばらばらです。

 

そんな物心のつき始め、価値観の違う友達、世界が広がり始めた頃っていうのは、忘れられない出来事に出会いやすい。

 

そんな誰もが通る思春期初期の刺激的で印象深い時期を切り取った映画であるかと思います。

 

「12歳の頃の友人に勝る友人をその後持ったことはない。誰でもそうなのではないだろうか」

(「スタンド・バイ・ミー」より)

 

【子どもにはどうすることもできない現実がある】

映画「スタンド・バイ・ミー」の四人の小学生にはそれぞれ悩みがあります。亡き憧れの兄と比較されたり、親のせいで悪い奴というレッテルを貼られたり、アル中の親がいたり、怖い兄貴がいたりしてます。

 

これって小学生ならではのどうすることのできない悩みだと僕は感じます。もう少し大きくなれれば、自分の力で未来を切り開くことも可能かもしれない。けど、まだ小学生の自分の力ではどうすることもできない。

 

自分が大きくなれば解決できるかもしれないけど、今は自分にはどうしようもない悩みというのは、小学生の頃に味わう独特の感覚だと感じます。ソフトな例をあげれば、大人になればゲームソフトを一本買うくらい簡単なことだけど、子どもの頃はゲームソフトを親に買って貰うのにも一苦労するみたいな。

 

彼らはそんな状況の中で自分達にできることをやってのけようとするわけです。

 

そんな小学生の頃のもどかしい言語化しにくい感覚を味わうこともできる映画だと思います。

 

【まとめ】

思春期のもどかしさを思い出すことのできる素敵な映画でした。

ハーフマラソン物語

「悪い、ちょっと腰の調子が良くならなくて日曜の大会行けそうにないわ」大田先輩は腰をさすりながら申し訳なさそうな顔をした。

 

「あぁ、そうですか」大河は頷いた。

 

「俺が誘ったのに悪いな。一人でも行くか」

 

「そうですね。せっかく応募したので行ってみたいですね」

 

大河は少し不安ではあったが、辞退する気にはなれなかった。

 

大河は3ヶ月程前から大田先輩の勧めでマラソンを始めた。彼とは、仕事終わりや休日に一緒に練習を積み重ねていた。

 

そして、今度の日曜日、ついに初のハーフマラソン大会に出走するのを楽しみにしていたのだ。

 

「一応、嫁もついてきてくれますから、一人ではありませんし大丈夫ですよ」それより腰をしっかり休めてくださいと大河は付け加えた。

 

ここ最近、大田先輩は腰の違和感を感じながら練習に取り組んでいた。それがどうやら悪化したようだ。

 

「当日はしっかりと俺の分も頑張ってくれ」大田先輩は大河の肩を強く叩いた。

 

 


大会前日の土曜日。

 

「熱、下がらないわね」夏江は吐息を漏らした。

 

「本当に行ってもいいのか」大河は再び尋ねた。

 

「えぇ、勿論行ってきて。この子のことは、私が見てるから。ついていけなくてごめんなさいね」夏江は申し訳なさそうな顔をした。

 

「いや、なっちゃんが謝ることないよ。俺の方こそ早希子が熱を出してるのに申し訳ない」

 

「いいのよ、もう3才なのだから、大丈夫よ。それよりも明日は頑張ってきてね」

 

「あぁ、ありがとう」

 

前日に娘が熱を出してしまい、夏江も大会に行けなくなった。こうして、大河は初のマラソン大会を一人きりで走ることになった。

 

 

 

日曜日の朝。空は雲一つない快晴。

 

「寂しい大会になっちまったな」大会会場へ向かう車中で大河は一人呟いた。

 

大田先輩や夏江が来れないのは不安ではあったけど、内心、初の大会への期待感の方が大きかった。頑張ってきた練習の成果も試したかったのだ。

 

会場へ着くと、そこは熱気に満ち溢れていた。如何にも「ランナー」と呼ばれるような人達が大勢いた。各々、談笑したり、ストレッチをしていたり、何か食べたいたりしていた。

 

意外なことに出店もあった。焼きそばやフランクフルト、マラソン大会らしいスポーツ用品などが売られていた。

 

へぇ、お祭りみたいだな。大河は楽しい気分になっていた。ゆっくりと出店を見て回って出走時間までの時間を潰した。

 

「スタートまで10分前となりました」アナウンスが聞こえる。

 

「………ふぅ」

 

高まる鼓動。いつもと違う風景。研ぎ澄まされた感覚。

 

大会前の独特な緊張感は大河にとって久方ぶりだった。この感覚、学生のとき以来で懐かしいなと物思いに耽っていた。

 

パンっと銃声が聞こえる。

 

(………もうすぐだな)

 

大河のずっと前に並んでいた人達が走り出している。徐々にその波は大河まで押し寄せてきた。大河は、他のランナー達と一緒に走り始めた。

 

高揚していた大河のペースはいつもより速かった。

 

「はぁ…はぁ…」

 

加えて、大勢の人がひしめく高密度のエネルギー空間では体力の消耗が激しい。

 

開始1キロメートルの時点でかなり息があがってしまった。

 

大河はまずいかなと頭の片隅で思いながらも、上がってしまったテンションを抑えきれずペースを上げていく。

 

ラソンには人それぞれのペースというものがある。周りの人たちは次第に少なくなっていった。

大河は残った自分と同じくらいのペースの人達に引っ張られながら、いつもより速いペースで走り続けた。

 

(なんなんだこの高揚感は)

 

大河は不思議な感覚に囚われていた。同レベルかそれ以上の実力のランナー達との追い越し追い越されのバトルや疲れてペースを落とした人を捉えて颯爽と追い抜くのが楽しくてたまらなかった。

 

そうしてそのまはま大河は初めての大会の魔力に導かれながら実力以上の結果を残すことができた。

 

「はぁ…はぁ…」

 

ラソン大会って滅茶苦茶楽しいじゃないか。

 

一人になってしまったけど来て良かった。大河は心の底からそう思うのであった。

 


f:id:mushitora:20211001204014j:image

仕事に関して思うこと~ストレスの一番の要因は上司との関係~

【前置き】

どうも、虫虎です。ストレスチェックの資料を眺めているとき、ストレスの一番の原因が「上司との関係性」になっているグラフが目に留まりました。確かに上司との関係で職場の居心地はかなり違ってくるなと思ったので、その辺りのことの思考を深めてみます。宜しくお願いします。

 

【ストレスの一番の要因は上司との関係性である】

ストレスの要因は色々あると思います。長い労働時間や難しい労働内容、手に余る仕事量などが挙げられるかと思います。

 

僕が見た資料では色々なストレス因子がある職場において、一番の要因は上司との関係性でした。

 

僕は改めて人間関係の悩みが一番のストレスになるんだなと感じました。

 

【上司との相性次第】

もうこれは、上司と相性がいいかどうかにかなり左右されると僕は思っています。

 

同じ仕事をしていても上司によって自分の評価は違いますし、上司次第で振られてくる仕事の量や質も変わってくると考えます。

 

前の上司は厳しくて大変だったけど今の上司は優しくて楽だとか、前の上司は自分のことを高く評価してくれたけど今の上司からの評価は低いとか。

 

結局のところ、上司の匙加減による割合が高いような気がします。

 

だから、自分の上司と上手く折り合いつけてやっていけるかどうかが仕事の快適さ、仕事のストレスに大きくか変わってきてしまうと感じてしまいます。

 

【上司も一人の人間であると考えておく】

上司は部下にとって権力者です。基本的には、部下は上司の指示に従わなければなりませんね。

 

上司は強い存在ではあるのだけれども、まずは一人の人間であるということを念頭に置いておくことが大切だと僕は考えています。

 

職場の自分の環境をよくしたければ、一人の人間である上司との関係をよくするとよいかと思います。

 

上司としっかりコミュニケーションをとる、上司が求めていることを探る、指示されたことをちゃんと遂行する、上司に貢献する。

 

媚びる程ではなくとも、上司が喜ぶだろうことをすると結果的に自分の環境がよくなる可能性は高くなるかと思います。

 

【自分らしく一生懸命働く】

まあ、確かに上司の性質に合った仕事をすると、自分の環境はよくなるかと思います。それを意識しておくのはとても大切なことであると僕は考えます。

 

しかし、もっと大切にしたいことは自分らしく仕事をすることであるとも僕は考えています。

 

自分の信念に基づく仕事への取り組み方、会社への貢献、他者への貢献を実行することが大事になると感じます。

 

上司と相容れない場合も多々あるんだけど、上手とバランスを保ちながら環境を良くして、自分らしく仕事ができるのが理想かなと思います。

 

全くそりが合わないなら異動させてもらうという奥の手もありますし。

 

皆が悩んでいることだから、かなり難しい問題ではあるのは実感します。けれども、なんとかして、上司の意向を汲み取りながらも自分らしく仕事できるようにバランスを取っていく。部下にとっては、その行動が自分の環境をよくしつつ、自分らしくいれる最善の方法なのかなと僕は考えます。

 

【まとめ】

人は変えることができないから、上手に上司とそりを合わせながらも自分を見失わないことが大切であるという話でした。

「上司の注文を聴く」「上司の強みを知って、それを生かす」「上司への報告やコミュニケーションの仕方は、その人にもっともふさわしい方法を選択する」「上司を驚かせてはならない」。これら四つの「部下力」を、君の嫌いな上司と付き合う一つひとつの場面で、工夫しながら実行してみてください。だんだん風景が変わってきますよ。

(「働く君に贈る25の言葉」より)

自分のことをまだまだだねって言い聞かせながら行動すると学びが多くなる

【前置き】

どうも、虫虎です。今回は、漫画「テニスの王子様」の主人公越前リョーマくんの決め台詞「まだまだだね」を自分に言い聞かせていると学びが多くなるよという話をします。宜しくお願いします。

【まだまだだね】

越前リョーマくんの「まだまだだね」って台詞は僕はいいなと思います。

 

漫画内では、越前リョーマくんはその台詞「まだまだだね」を相手選手に向けて言い放ちます。まだまだ修行が足りんぞ、と。中学1年生だけど強敵や先輩に生意気に歯向かっていく。そんな姿が魅力的なのでしょう。

 

現実世界でこんな態度をとっていたら、勿論、相手は気を悪くするので、余程状況が整っていない限りは言ってはならないと思います。

 

ここでは、この「まだまだだね」を自分に言い聞かせるといいのではないかということについて語ります。

 

【おごりがあると成長しない】

人は自分がちゃんとできていると思ってしまうと、成長しなくなる。ちゃんとできている状態というのは、精神的に楽ではあるのだけれども、それと引き換えに成長率が低くなる場合が多いと思います。

 

だから、何事においても自分に「まだまだだね」って言い聞かせるとことで謙虚になれると僕は考えます。

 

成長には終わりがなくて、自分はまだまだ発展途上中なんだと心に留めておくことで、日々は大変になるかもしれないけど、学びの機会が得られて人生が結果的に楽しくなると僕は考えます。

 

【ちょうどいい台詞】

「まだまだだね」ってちょうどいい台詞だと僕は思います。

 

例えば、謙虚になろうとして「全然駄目だ」って自分に言い聞かせるとします。

 

その言葉だと、マイナスの力が強すぎて自分って全然駄目な奴なんだと落ち込んでしまいかねないと思います。全然駄目って言ってしまった方が踏ん張りが効くかもしれないけど、心にもダメージが多いような僕は感じがします。

 

その点、「まだまだだね」って言葉は、意味合いとしては、「自分はまあそれなりに頑張ってるけど、まだ頑張れるよね」みたいな印象を僕は受け取れます。

 

やってきたことを認めつつも、まだ成長できるぞ、と。自己肯定感を保ちながらも、謙虚な気持ちもって学びも得れるちょうどいい台詞だと考えます。

 

自分を卑下しすぎることなく、ちゃんと認めた上でお尻を叩く「まだまだだね」って言葉を自分に使ってみてはどうでしょうか。

 

【まとめ】

おごると成長率が下がる。やっぱり、謙虚に学ぶ姿勢が大事であるという話でした。