ランニング好きライトゲーマー虫虎(小説家志望)の日記

ゲーム、ランニング、文章書き、読書、昆虫、子育て、オナ禁、映画、人間関係、音楽、僕が考えていることなどを書いている雑記ブログ

怒りの感情に関して僕が思うこと

【前置き】

どうも、虫虎です。今回は「怒りの感情」に焦点を当てて僕の考えることを雑駁に語ってみます。宜しくお願いします。

 

 

【自分はどんなタイプか?】

自分は、基本的には怒れない人だと思います。人からはよく優しい人や大人しい人と印象を持たれます。僕自身、基本的に平和主義者であって、人に気を遣い、人に意見をぶつけることが苦手で、相手の顔色を伺っているところが多いなと感じています。怒りたいこと、苛々することがあっても言えない。我慢して、もやもやとストレスを溜めてしまっている部分もあるのかなと思います。

 

 

【怒るのは嫌い】

さっきも書きましたが、僕は、怒るのは好きじゃないです。そもそも怒るのが苦手です。怒る人も好きじゃないです。怒りがなければ、人生に刺激が足りなくなるのか。いや、そんなことないと思っています。心を平穏無事に平常心を保つことは良いことだと思いますし。しかし、時には感情をぶつけ合って良かったなと思えることもありました。常日頃から苛々するのは良くないと思うけれども、必要な時くらいは怒らないまでも言いたいことは言える人間にならないとなと思ってしまいます。

 

 

【怒ると起きること】

他人を怒ると何が起こるのか。怒ったところで、その人が行動を改善してくれることなんて殆どないような気が僕はしてしまいます。大抵はその場では行動を改善してくれるけど、その後は萎縮させてしまうか、反発されるか、嫌悪感を持たれるかではないでしょうか。怒った人は、苛々を発散できるけど、後にその人との関係性が悪くなったり、自分の心の中が黒くなったり、エネルギーを消費してしまうといったデメリットの方が多いんじゃないでしょうか。もう一つ僕には、この人に怒ったり、注意しても無駄なのじゃないかという、諦観もあります。それも怒れない理由の一つとしてあるかと思います。怒りたくない自分への言い訳かもしれませんが。でも、赤の他人に対して怒っても良いことないし、必要性もないような気がします。

 

 

【誰に怒るのか?】

仮に怒るとするならば、誰に対して怒るのでしょうか。それは自分の大切な友人や家族に対して言わなければならないことがある時ではないかと僕は考えます。例えば、まだ世の中のことをちゃんと分からない自分の子どもに対して注意するとか。そこでも、決して感情的にはならずに、子どもの成長を願い、愛をもって冷静に怒る事ができればいいなと思う。

 

 

【怒られた時は?】

人に怒られると気分が落ち込みますね。特に僕は、ちょっとした人の怒気に触れただけでも気分が落ちてしまいます。メンタルが弱いのか、怒りに対しての耐性がないのかは分からないけれども、怒ってる人、怒りやすい人、短気な人は苦手です。だから、普段から人に怒られないように人を怒らせないように、自分の言動に気を遣ってしまいます。話す内容も考えるし、迷惑がかからないように動くように無意識でしてしまっているところもあります。怒れる人は、自分の気分が爽快になったり、人間関係において優位に立ったりして得をしているのかもしれない。その代償として、敵を作りやすかったり、心の中に闇を実は残してしまっているのかもしれない。

 

【苛々した時は?】

感情の赴くままにキレても良いことないと思います。相手にキレて八つ当たりをしてストレスを発散しようなんて論外ですね。苛々とした時は一旦落ち着くことが大事です。時間が経てば、その時の感情も徐々に薄れていくんだと考えてなんとか待とう。そして、常に平常心を保てるように、ありのままの状況を受け入れることのできる心を強く持ちたいですね。そして、溜まったストレスは、好きなことをして発散するべきかと思います。とりあえず、その場は抑えて、後で好きなことをして発散しよう。そんな心が穏やかでいられない時は、羽目を外してもいいんじゃないでしょうか。

 

【怒ってしまったらどうするか】

我慢できずに怒ってしまった後、どういう行動をとればいいのでしょうか。それは、その感情的に怒ってしまった人に対して「反省して、非を認め、謝る」。これしかないでしょう。やってしまったことはなくすことはできない。自分に嫌悪感を感じて、苛々して、ドツボにはまらないように、相手に対して感情的に怒ってしまったことを「反省して、非を認め、謝る」のがいいか僕は考えます。

 

 

【まとめ】

以上、僕が「怒りの感情」に対して思ったことを思うままに書いてみました。駄文失礼しました。

 

ここまで読んでくださってありがとうございました。

「怒っても、よいことは何一つないのだ」と正しく理解することです

(「「心の疲れ」が消えていく瞑想のフシギな力」より)