【前置き】
どうも、虫虎です。今回はダニエル・キイス先生の小説「アルジャーノンに花束を」について思ったことをつらつらと書きます。盛大にネタバレしてますので、ご注意ください。宜しくお願いします。
【あらすじ】
利口になりたいと願う若者チャーリィ・ゴードンが知能が向上する手術を受けた。急激に高まる知能に、心がついていかないチャーリィ・ゴードン。覚束無い心のまま高まった知能で彼が見た現実世界とはどんなものだったのか。
パン屋の人達や家族、研究所の人々との関係性はどう変わっていくのか。
そして、彼は高まった知能で何を理解し、何を見たのか、そして、何を成していくのか。
【知るのが幸せ?知らないのが幸せ?】
チャーリィ・ゴードンは、自分の知能が向上することで、初めて自分が職場人に馬鹿にされたり、からかわれていることや自分の母親にされた仕打ちの意味を知ることになりました。そして、傷つきます。
彼は気づくことのなかった心の痛みを知ってしまった。もしかすると、彼は知能を得て不幸せになったのではないでしょうか。
知らなければ幸せなこともある。
けど、人はやっぱり今日の自分より成長していくことに喜びを感じるものではないでしょうか。だから、辛い現実が待ち受けていたとしても、それに耐えうる心があるのならば、色んなことを知っていった方が幸せなのではないだろうかと僕は考えました。
きみは、好ましい知的障害者の若者から、傲慢で自己中心的で反社会的な手に負えないしろものになってしまった
(「アルジャーノンに花束を」より)
【人格が変わったということは?】
チャーリィ・ゴードンは急激に知能の上昇を経て、別人格になってしまいました。別人格になったということは、彼の記憶は体験ではなくて、記憶というデータ的なものになるのかなと思ってしまいました。つまり、彼は母親がチャーリィに利口になって欲しいと思って行っていた仕打ちの中にある僅かばかりの愛情を感じ取れなくなったのかもしれないです。
感じ取れていなかったから、傲慢な性格になってしまったのではないかと思ってしまいました。完全に僕の勝手な解釈ですが。
そして、知能が低下し始めて昔の彼に戻りつつある時に、自分は母に笑ってほしかったのだと理解したのではないでしょうか。それが一番の願いだったと思い出したのではないかと僕は感じました。
私は、母が笑うのを見たかった、私が母を幸福にできる人間になったのだということを知ってもらいたかった。私は生まれてはじめて母の口もとに笑いを運んだ
(「アルジャーノンに花束を」より)
【知能が低下する恐怖】
本書を読んでいて知能が低下していくのは、酷い苦しみだと感じてしまった。チャーリィ・ゴードンの知能が低下していく過程は、悲哀な気持ちに浸りながら、夢中になって読んでいました。
人為的に誘発された知能は、その増大量に比例する速度で低下する
(「アルジャーノンに花束を」より)
【手術前後のチャーリィ】
読んでいて良かったなと思えたことは、知能が低下して昔の知能レベルまで戻ってしまったチャーリィ・ゴードンが手術前と全く同じではなかったことです。
高知能になって経験したことは、彼の心の中に残っていました。知能が低いから上手く言語化できないけど、何か凄いことをしたんだとか、母親を笑顔にできたとか、家族のことを理解したとか、パン屋の人間関係が良くなったとか、そういった変化があったことが読んでいて嬉しくなりました。
そして、僕は純粋無垢なチャーリィ・ゴードンが好きになっていました。
【まとめ】
考えることが沢山ある小説でした。読み終えると、チャーリィ・ゴードンのことが好きになっている。知能が低いからこそ、純粋な心を持てるという側面もあるのかなって思いました。どちらが幸せなのでしょうね。
高いIQを持つよりもっと大事なことがあるのよ
(「アルジャーノンに花束を」より)